昭和43年05月09日 朝の御理解
銘々の信心を、愈々確かなものに、本当のものにしていくために今朝の御理解を頂きたいと思います。愈々確かなものに。愈々本当のものにして行く為に、お互いが愈々信心が前向きになっておらなければならん。これで良いということはない。そういう意味合いで今朝の御理解を頂いてもらいたいと思う。御理解第42節「これ程信心するのに、どうしてこう言う事が出来るであろうかと思えば、信心はもう止っておる。是は
まだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」とこう仰せられる。これほど信心するのにというのは、もうそれぞれ、まぁある意味合いにおいて一端の信心が出来ておるという事ですね。これほど信心するのにという事は、まぁ例えていうなら朝参りも出来ている、ね、御用もさせてもらいよる。神様事といやもう本当に、何をおいても神様事を先に取らしてもらいよる。
というほどしの、信心が出来ておるとまぁ感じがありますよね。これほど信心が出来るという事はですね。だから、ならそれほどの信心が出来ておるからというてですね、これで良いということはないて。ね、そこに今日のご理解の焦点を置いて皆さん、銘々の信心を頂いてもらいたいですね。だから、その、そういう風に思えばもう信心は留まっておると仰るのだから、おかげは受けられん。ね、
そこんところをです、ならどういう風に飛躍しようか。どういう風に一段と信心を進めていこうかという願いというものが、あって初めてそこに、これはまぁだ信心が足りんのじゃということになって来るのです。形の上のことならもうこれで良いかもしれんけれども、内容というか、心の面になってくると限りがないのです。ね、形の上においてはもう、もうこれで良いということはない。
例えば17年間、秋永先生があれで一端の信心が、自分も出来ておると思い、人もあんな熱心な信心をしておられる、福岡あたりからまでお参りをされるというようなものであったけれども、丁度昨日でしたか、一昨日でしたか、ここに朝参りを始められるようになって、まる4ヶ月になりました。というお届けがあった。いうなら120日間の、まぁ朝参りが福岡から毎日出来たわけなんです。
してみると過去17年間の信心というものは一端の信心じゃなかった。それでもやっぱり、ほとんど月の中二十日は椛目の御用だというて、その当時もやっぱりいうておられた。けれどもそれにもう一段、と例えばならこの朝参りが出来て来るようになられたら、どうしてこげな有り難いこと早よ気が付かじゃったじゃろうかという風にいうておられるですね。お互いの信心が、とてもあたしだん遠かけん。
とても私だんそげな側におったっちゃそげん、毎日参るてんなんてんちゅうこた出来んなんていうような考え方は、もうすでにその人の信心は間違っておる。この辺の所ですかね。教祖の神様はその仰っておられます言葉の中に、この方を大谷の生神様と皆が言うけれども何時この方金光大神でもです、この私でもです何時神様からお暇が出るやら分からんと仰っておられます。何時神様からお暇が出るやら分からんと。
是はね所謂これで済んだとは思わんという自覚というですかね。金光大神の御神格を頂いておるから、もうこれで最高だという風には思っておられないという事。何時も信心を本当な、所謂確かなものを本当なものを求め続けておられる、是は姿勢だとこう思うんです。皆さん歌舞伎のお芝居の中に梅忠ですね、梅川忠兵衛のお芝居がありますね。あの封印切の場で忠兵衛が有名な台詞があります。
切羽詰まって封印を開けるわけです。ね、その時にその梅川に申します「忠兵衛この封印を切ったからにはです、もう自分の首はこの胴には付いてはいない」と。何時自分がお仕置きにあうやら分からん。もうこの首は胴には付いていないのも同じだというわけなんです。何時神様からお暇が出るやら分からん。ね、同じ意味を持っておって、実際その内容は全然違うということ。
片一方もう自分自身が封印を受けると言った様な、だいそれたいわば罪をおかしておるんです。金光大神の場合は、それこそ神の中を分けて通りおるようなものじゃという実感、何時も。それでいて何時神様からお暇が出るやら分からんと、こう仰っておられる。私は昨夜、青年会の方達にお話をしたことでございますけれども。偽者我の自覚に立てと私がこれはね私は偽者だと、自分を肯定してしまった表現ではないのです。
もう私はつまらん、私はもう偽者。もう初めから偽者というのじゃない。我偽者の自覚。自分の内容から、自分の信心から何時もこれで良いとは思っていない、これが全てが本当とは思っていない。何処に間違いがあるか。何処に本当なものではないものがあるかというものを、厳しく見極めたことなのです。その偽者でもです、それを皆が本当なものに見て下さるようなことがある。
先日もこれも秋永先生が甘木の信徒会に出席して、幹部だけのそれに後に残っておった時にそのまぁ秋永先生を皆がその軽う見とる。何処の信者じゃろうかというわけなんです。ところがあなたどちらからですかちいうてから聞かれたけん、私は合楽でございますち言うたらもう途端に態度が変わって。合楽というただけでというほどに、最近の合楽というものは皆に、ある意味での焦点の的になっておるし。
ある意味合いでは、はぁ合楽、合楽というて軽蔑しとったけれども、あぁいう例えばご造営なんかも出来て、ご信者なんかも段々あんなに沢山増えていきよるということはです、というようなものがまぁいうならば、目を見張らせるものがあったに違いがない。今まで軽蔑しておったけれども、信心の内容もやっぱり立派な信心に違いはないという風に考えてきたという、こりゃ印だと私は思うんです。
ですから皆さんがです、私は合楽の総代でございますどん言うたら、はっ合楽の総代さんですかというて確かに丁重にされるですよ。だからというてなら私は総代だからというてそんなら威張っとでもおってご覧なさいませ、必ず一遍な真っ裸になせられてからですよ。満座の前で恥かかなん様な事が起こってくるです、何故ってほんなもんじゃないから。私は、合楽の総代をしておりますなんて言う様な事はですね。
その自分のぐらいな者が総代となんてん言いよるなら、ほんなこて合楽の信心に傷が付く。というくらいのですね、いわゆる自分という者を本気で見極めてです。ね、私は信心が必要だと。昨日、ここの屏山中学の家庭訪問があった。中学生がここ二人いとりますから、二人の先生方が見えた。一人はあの美術を担当しておられるという、まぁ方であった。ここに色んな、美術品というほどしの事でもないけれども。
まぁ色んな良い物が、骨董品のような物が沢山あるということを聞いておられて、ぜひ一遍見せて頂きたいと。特に陶器が非常に、あの愛好される方である。ここ部屋、部屋に飾ってあるその陶器を見てから、もう本当にたまがってからですね、もうまぁ素晴らしいと、まぁいうて下さった。中に何点かほんな物がある。けども他んとまでほんな物という風に、まぁ見られるわけなんです。
私共が本当にそういう自覚に立っての信心がですね、なされておらなけおらないと、本当なものを見失う。自分が偽者であるという自覚に立っとかんとどうしても、姿勢が高うなる。そういう例えば意味でです、ね、これ程信心するのにどうしてこういうことが出来るであろうかと思えば、心はもう止まっておる。ね、こういうことが出来るであろうかと思わなくても、私共の内容に金光大神のいわばご自覚と、ね、
梅川忠兵衛がいうておるその、ね、もう自分はこの封印を切ったからには、もう何時この首が飛ぶやら分からないという、ものとは違う。一ぱしのことをさせてもらっておる。金光様の場合で、もう一ぱしのことをなさっておられる。人から生神様と言われるほどしのところまで行っておられてもです、なおかつ何時神様からお暇が出るやら分からんという、その謙虚なものがです、私はお道の信心の生命だとこう思う。
何時も信心が足らんのじゃと。これだけの事が出来ておる、と言った様なものではなくてですチャンスが与えらえる。ね、そして本当なことが分からせて頂いたらもう何時でも現在の信心は投げ打って次の信心に進ませて頂こうという、潔い私は思いというものがなからにゃいけん信心は進まない。なるほど嘘ではない。けども本当なものじゃない。ね、自己を否定しない同時に肯定もしないというのはそげな事。ね、
同時にこれ程信心が出来ると言った様な事やらはですいけません。この頃秋永先生の、お話の中に時々出る言葉の中に、もうこげんなったら最後です。もうとにかくがむしゃら。いうならもうやけくそで信心を進めて行けと。私はそれを聞かせて頂いてからというのはいうならば毒食わば皿までと言う様な響きを持っておる。そんなら実際に秋永先生の信心、または自分自身の信心の内容というものは決してやけくそじゃない。
毒食わば皿までと言った様なものじゃない。こうしていきゃ必ずおかげが受けられるというね、確かなものを自分の信心の中に頂いていきよんなさる。と私は信ずる。又お届けの内容を聞かせて頂いても、間違いないですなぁと私も言い、思う。だからいうならば、やけくそでもなからなければ、毒食わば皿までというのでもない。ね、今日のところの御理解なんです。もう実際というものはです、これはまぁだ私の信心が足らんからだと気付いておられるだけのことなんです。
だから信心は一にも前進。二にも前進。三にも前進あるのみだと。弾が尽きたら、剣付き鉄砲。剣が折れたら、肉弾で。もう信心はこの、これで行く以外にはないです。一足飛びには出来ませんけれども、そこんところをです確かめ確かめして行きながらです。確かめ確かめして行きながら。はぁこの位変わってこの位の信心になればこういう風に内容が確かになって来る、おかげが確かになって来るのであるから。
是を前に進めてさえ行けば内容が変わってさえ行けばおかげが受けられるという確信を持っての前進なんです。今日の御理解はそこん所そこで一にも神様二にも神様三にも神様という例えば生き方がです、一にも二にも三にもというそこん所の、それがそんなら難しい事であるかというと難しい事ではない。まぁ段々それがいうならば、どうしてこういう有難い事が解らなかっただろうかという事。
自分の信心をね確かなものにして行きながらそういう信心を進めておる。ね、ならそれでいてです本気で自分自身を見極めた時にです、ね、偽物我の自覚が出来て来る。ですからそこん中にです是でよいとは思わん、これで良いとは思わん、という思いが何時もあるから、何かそこにチャンスがあった時にはパッと切り替えて行く事が出来るんです。これ内容の上においても、形の上においても同じ。
そこんところのですね、私は内容をお互い確かめ確かめしていった信心じゃなからなければです、いわゆるね、金光様が何時神様からお暇が出るやら分からん。いかにもそれは戦々恐々、薄氷の上を渡るような思いのように見えるけれども、実際はそうじゃない。ね、自分が信心が出来ずしておいて。自分がここを改まらにゃおかげ頂けん事分かっとって改まりもせずしておいて。ね、
それならばです、又は信心しよるならこげな事じゃいかんという事をみすみす知りながら、なしていったりしておって、本当に神様段々分かってくれば来るほどに、何時この首が胴についておるやら分からんといったような事になって来るんじゃないだろうかとこう。なるほど、薄氷の上を渡るような信心じゃならん。なるほど神の中をわけて通りおるような実感。だからというて、それで良いというのじゃない。
これがほんなもんというのじゃない。限りなく信心は前進あるのみだ。今は出来てはいない、けども分かったら前進する。分かったら改めて行く。これで良いとは思わない、というて否定もない。自己を肯定しないでの生き方。ね、自己を肯定するでもなし、否定するでもない。そういう信心を、身に付けて行きたい。合楽の信心、又お互いの銘々の信心というものをです。
現在のところでは、ここんところが本当だと分からせて頂いておるというとです、ね、何時それがもし間違いであるという事に気付いたり、教えてもらったら、何時でもこちらは脱皮出来ていく、本当なものに進んで行けれるという、あの信心態度というものがですね、必要であると。いよいよ自分の信心を確かなものに。ね、本当のものにして行くためにはです、そういう生き方を取らなければおかげは受けられん。
合楽と言うただけで、はっ合楽ですかと、態度がいうならば変わるくらいに、合楽は段々認められて来た。認められて来たからそれで良いというのじゃない。何故って、自分を見てみるが一番よう分かる。そういうようなものがもし、赤裸々に表面に出た時です、それこそ、あれが合楽の信心かというて、今度はいうならば笑われるようなことにまでなって来る。これで良いとは思わん。これが本当とは思わん。
けども現在のところではこれが、私は、斯くここんところを信じておるというのであって。それでも、もっとより良い、本当なものがあったら、何時でも自分は、改めて行くという、そういう信心をですね頂いて。いよいよ自分の頂いておる信心を、確かなものにしていこうという事に、なってまいりませんと、いよいよ、おかげが本当なものに、確かなものになってまいりません。
これは、自分の信心の内容というものがですね、偽物我というこの自覚を持ってです、本当なことへ本気でならせて頂こうという意欲を持っておけば、それがよし偽物であっても、神様はおかげ下さるのですよ。いうならば顔を立てて下さるのですよ。けれども偽物はもう、これよりはないように思うたり、ほんなもんのように思うたり、偽物という事は分かっておって、そこんところを改まろうともしない。
横着な生き方をしておると、私はいうなら、満座中で恥をかかなければならないような結果にすらなって来るのじゃないかという風に思うのです。ね、どうぞひとついよいよ信心を確かなものに、本当なものにして行くために、お互い信心をいよいよ…。何時神様からお暇が出るやら分からない。というその内容がですね、梅川忠兵衛的な、いうならものから、ものではない、金光様が一端の信心。
これほど信心するというほどし、ほどしの信心が出来ておる上になおかつ、これで済んだとは思わんという一にも押し、二にも押す三にも押しという押しぬいての信心に、押し捲って行くいうならば信心。そこから押し捲って行くて愈々本当のものに進んで行くという事なんですから、ね、そこから本当のおかげに向かって進ませて頂くわけなのですから、ね、愈々本当なものを目指しての一つ信心の姿勢態度を正して行きたいと思います。
どうぞ。